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┃ コラム 「日本を支えてきた人」
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┃ 丸子 芳史 2003/1/23
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僕の知人に、今年で92歳になるおばあちゃんがいます。
はじめてあったときは90歳でした。
なんでそんな人と知り合いかというと、
実はこのおばあちゃん、大学で国文学を勉強しているのです。
はじめは70歳ぐらいかと思ったのですが、実際は20歳も歳が上でした。
僕らの感覚の20歳とは少し違うかもしれないですが、大抵70ぐらいに見られる
らしいです。
このおばあちゃんのすごいところは「年齢」だけではありません。
書道の先生であり、お茶の先生であり、趣味で写真を取ったり、
源氏物語を研究したりと様々です。
それから、70歳のときに中国に行ったという話も聞きました。
このおばあちゃんの変わっているところは、あまり昔のことは話したがらない
という点です。僕が接してきた高齢者は大抵昔の話をしたがります。
僕はそういった話を聞くのも嫌いじゃないので、老人受けは良い方の人間です。
このおばあちゃんと会うときは、大体学校の喫茶店でお茶を飲みながら話をする
のですが、「今度お茶会があって」とか、「書道の展覧会に出してくれと頼まれ
たから今からそれも書かなければならない」とか、彼女は常に未来のことを話し
ます。
そういう話を聞くと、僕もがんばらないとな?と強く思います。
だって大正元年生まれですよ。明治最後の年に生まれてるんです。
「約1世紀もの間日本や世界を見た来た人の話」は実に面白いです。
「若い人と話して元気なエネルギーをもらう」とよく言ってますが、
僕もこのおばあちゃんからは元気なエネルギーをもらっています。
おばあちゃんは若いころ『小学校の先生』だったそうです。
そのころのお話をしたいと思います。
おばあちゃんが学校の先生だったころは、ちょうど第2次世界大戦の時期で
学童疎開も経験されたそうです。その小学校の疎開先は山形県で、おばあちゃん
は疎開が始まると児童を見送って、戦争が終わった後は山形に児童を迎えに行っ
たそうです。
その後も山形を気に入って何回か行ったそうですが、
実は僕の実家も山形なので結構山形の話で盛り上がったりもします。
日本が戦争に負けた後は、明日食べるのもに困るほどの生活をしていたという
ことでした。この話は、どんな人に聞いても「戦後の日本を知っている人」なら
みな同じ事を言います。国全体が貧しかった時代だったのです。
僕を含めた「20才代あるいはそれ未満の人」には全く実感の持てないことです。
でも、そういった時代があったということはもっと伝えていかなくてはなりませ
ん。それを忘れてしまうことは、貧しい人の気持ちを忘れてしまうことになるか
らです。
ちょっと横道にそれましたが話を続けましょう。
おばあちゃんの旦那さんは「学校で知り合った人」だそうです。
職場結婚ですね。今はもう旦那さまはいらっしゃらないそうですが。
小学校の先生は定年まで続けたそうですが、
最後は学校の頂点である『校長』にまでなられたそうです。
実は、この校長になるまでにはちょっとした逸話があるそうです。
都の教育委員会から校長への打診があったのですが、初めは「男性の方々を差し
置いて、私が校長にはなれません。」と断っていたそうです。
しかし、委員会も決定を覆すわけにはゆかないということで、
結局その話を受けることにしたということでした。
実はこのおばあちゃん、【日本で始めての女性校長】だったのです。
この話を聞いたときすごくびっくりしました。
歴史上の人物と話しているような高揚も覚えたほどです。
定年退職した後は、2年間「写真の専門学校」へ行って写真の勉強を
したそうです。
『自分のやりたいことをいつまでもやり続ける』ということと、
『実はやりたいことっていうのは意外といつでもできる』という2つのことを、
おばあちゃんと話しているとよく思います。
最後にこのおばあちゃんの『先生にまつわる特技』(もしかしたら職業病)を
ご紹介します。
黒板に向かって何か書いているときでも、
どこの席で誰と誰が話をしているとか、誰がノートも書かずにぼけっとしている
とかが分かるそうです。
僕は小学校のとき悪ガキだったのでその話には実感がありました。
「何で見てないのにわかるんだろう」っていつも不思議に思って
「先生には後ろにも目があるの?」と聞いたことがあると話したところ、
おばあちゃんは笑っていました。
阪神大震災
塩口 洋司
阪神大震災が起きてから8年が経ちました。
その当時高校生だった私は神戸近郊に住んでいたため、実際に震災を体験しま
した。
私の父親が震源地に程近い所で働いており、震災当日に会社が心配だという
ことで「2時間かけて自転車で会社の様子を見にいこう」ということになったの
です。
震源地に向かうに連れて「見るに見れない光景」が次々に目に飛び込んできて、
「家屋」はもちろん「高速道路」までもが破壊され、本当に「映画でみたような
光景」が目の前に広がっていたのですが、父親の会社の所在地に着いてもっと
驚きました。
5階建てのビルが見るも無残にも崩れ去っており、私なんかは勝手に「これで
親父は職を失ってしまうんかー。これじゃー俺も大学行かんと働かんとあかんね
やろうなー。」と、関係のない私が勝手に会社に対してあきらめに近い感情を
感じておりました。
するとそこにその会社の社長さんがやって来て、集まっている社員みんなの前
で、『こんな状況やけど絶対にあきらめるな!あきらめたら何でもそこで終わっ
てしまうんや。今は前に進むしかないんやし、ここで踏ん張らんとどこで踏ん張
るんや!! 自分が成長する足がかりにせい!』と、自分の会社のビルが無くなっ
て一番落ち込んでいるはずの社長自らがそうおっしゃったのです。
現在その会社は「震災前以上の売上」を上げ、リストラもなく存続しています
し、社長さんも元気で現役生活を送っておられるようです。震災以降はお会いし
てはいないのですが、その当時の社長さんの光景が浮かんできます。
社長として社員に対して責任がある立場であったのでしょうが、「自分のこ
とよりもまずは他人のことを考える、信じれば道は開かれる」を本当に実行され、
そして企業として、そして社長として成功されています。
その社長さんのお話を聞いてから、私も物事を前向きに考えるように努力しま
した。
どこかの社長さんもおっしゃっていたのですが、マイナス思考をプラス思考に
変えることはできるし、仕事ができる人の条件として、【前向きで情熱があり、
プラス思考型の人間】という条件を上げておられます。
実際に私もマイナス思考人間だったのが、ここでプラス思考人間になりました。
マイナス思考だからってダメなのではありません。
少しずつでも前向きに、そして物事をプラスに考える努力をすれば少しずつ変わ
れるはず。
何でもあきらめたら終わり。この言葉を肝に銘じておけば、たいていの物事
はこなせます。
悲しいかな人間って気持ち一つで大きく左右される生き物なんですよね・・・。
世界のリーダーシップ ・ 日本の新卒就職
齋藤 勇樹
海外の企業で働いていたことがあります。
そこでのトップのリーダーシップは、
『とにかく社員と分け隔てなく、うまい飯を食べる』リーダーシップでした。
居酒屋でアルバイトをしていたことがあります。
日本でよくあるリーターシップは、
『部下を食事につき合わせて、話を聞かせてあげる』リーダーシップのようです。
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こんにちは、齋藤勇樹です。
「とりあえずは大企業に就職しようと思うんだ。」
友人からこの台詞を聞いたときに思った素敵なことわざの話をします。
● 同じ釜の飯を食った仲 ●
生活を共にした親しい仲間であることのたとえ
(小学館刊行「大辞泉」より)
例えばもうまるで家族のような友人、これが「同じ釜の飯を食った仲」です。
上も下もなく、お互いがお互いを助け合って支えあっている仲間のことです。
企業を創業した社長はじめ社内がみな「同じ釜の飯を食った仲」であれば
どんなに素敵だろうと思います!
自分も海外にいたとき、「どんな社員も(掃除のおばちゃんさえも!)分け隔
てなくおいしいご飯を一緒に楽しむ」というリーダーシップを心から楽しんでい
ました。
しかし、日本の高度経済成長を支えてきたのは【ピラミッド型組織】や【官僚
主義】なので、その構造ではそもそも社長と社員は「違う釜の飯を食うもの同士」
です。
「違う釜の飯」気分なので、一緒に居酒屋に行っても面白くないわけです。
企業の大小はさておき、“とりあえず”就職をするなら、【同じ釜の飯を食う
もの同士になれる社長のいるところ】というのは、本当に悪くない選択肢だと思
います。
何よりとにかく、毎日の食事がおいしい!
だって大企業もどうせ、“とりあえず”なんでしょ?
だったら毎日の食事がうまくて、否が応でも元気でちゃうところ、だいぶ悪くな
いんじゃない?